のぼりぐちみちこ『ウンチを出して「車いす」を脱ぐ』特設ページ
2024年11月23日、のぼりぐちみちこさん『ウンチを出して「車いす」を脱ぐ』読書会を開催します。
本書は、赤裸々で、真っ直ぐで、心揺さぶられる文章がたくさん詰まっています。
少しでものぼりぐちさんの文章に触れてほしくて、目次&本文試し読みページを作りました。
興味を持ってくださった方、ぜひ目を通してみてください。
きっと気になるフレーズに出会えるはずです。
より深く知りたい方、ぜひ本書を手に取ってください。
そして語りたい方、ぜひ読書会にご参加ください。
書籍通販ページ(くじらブックス・日本の古本屋)
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『ウンチを出して「車いす」を脱ぐ』目次&試し読み
目次
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1秒、1秒先、
いつも初めての経験
わからなくて当たり前
「障害者」って何
「ただの私」がつぶやく
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はじめに〜ウンチを出して「車いす」を脱ぐ
第1章 どんな体も、私は私
自分のこと、すぐにわからなくてもいいよ
「どんな体も、私は私」であるはず
「ただの人」が「障害者」にさせられる
「障害者」だからって、他人に人生を決められてしまうの?
10代の呪い「自分でできなきゃダメ」
違いがわかる障害者、違いに慣れていない健常者
どんな体も、私は私
第2章 福祉は人生の一部であって、すべてではない
世の中、捨てたもんじゃない
「先が見えないジャングル」で見失ってはいけないこと
「福祉は人生のすべてではない」と教えてくれた相談員
通りすがりの人までも巻き込んでイタリアへ
「車いす」から離れ、男性の胸へ
アフリカ人ヘルパーの「あなたは、どうしたい?」に救われる
第3章 怒り、笑い、「ただの人」に生まれ変わる
「怒り」が溜まるのは、おかしくないこと
自分らしく部屋を散らかす
周りに気を使うな。人生の友を見つけよ。
いつもの日常は、おいしいものを食べることから
「ヘルパー」から逃げ、ギリギリのラインの自由を求めて
「寝る」は、たった一つの簡単なシャットアウト
アホになる日
おわりに
本文試し読み
どんな体も、私は私 本文 21p~23p
- 『琉球王国の興亡』
- 『沖縄戦の記録』
「どんな体も、私は私」と呪文のように唱える。それには理由がある。
障害者は、自分の人生の主人公になれない。言い方を変えれば、「自分の人生の主人公になる機会を奪われる」ことが多い。意外と、気づかないかもしれないが、「自分の体そのものの主人公になれない」ことも大きな問題だと思う。特に、病院では、診察室に行くだけで、医者のほうが体のことをよく知ってい るように感じるから、なんだか自分の存在が小さくなる。病院の職員のことの言うことを聞いて、お利口にしなきゃと口数も少なくなる。
私は、3歳の時に脳性麻痺の診断を受けた。体が不自由な障害を持つと、障害名が診断され、手足や体の動く範囲をものさしで測ったり、レントゲンて骨の角度を測ったりするなどの検査を行う。検査の時は、病院の先生に勝手に体を触られ、ものさしを手足に当てて、何か数字を言い、次から次へといろいろなところを測っていく。ステキなドレスを作ってくれるのならサイズを測ってもワクワクするが、医者は「私の動かない範囲」を記録している。レントゲンでも、レントゲン技師は、マネキン人形の体の位置を調整するかのように、ベッドの上の私の体を好きなように動かす。私は美しいモデルではなく、医療のモルモットで、彼らには作業の一つであった。
初診の検査が終われば、理学療法士や作業療法士などの先生たちによる体のリハビリテーション(訓練) を受けることになる。もう一度言うが、私にとって、私の体は、私そのものだ。ただ、どうして勝手にカが入って、足がピーンっと伸びてしまうのか、手を使いたくても思うように動かせないのか、わからなかっ た。わからないのに、車いすを自分で動かせるように、腕を横に伸ばされた。自分で押せる気がまったく しなかった。30代になって、ようやくリハビリの先生に教えてもらい、自分の体の仕組みがわかるようになってきた。そんなに長い間、私は、自分でできないことがダメなんだと思い込み、自信を失っていたのか。病院では、一貫して、正常に動くことを求められていた気がする。
障害があるなしに関わらず、自分の体と向き合えている人はどのくらいいるのだろう。正常に体を動か している人はどのくらいいるのだろう。そもそも正常って、何だろう。
30代になって、リハビリの先生に衝撃的な事実を聞いた。たくさんの人は、猫背になって姿勢が悪かったり、腹筋がうまく使えていなかったり、夜中に寝返りを何度もしていたり、まぁ、正しい姿勢のままでいる人はいないそうだ。たしかに、大人になってみると、周りの障害のない人たちも「腰が痛い」「眠い」 「呼吸が浅くて息している感じがしない」など言っているのを聞いたことがある。そして、ほとんどの人は、 自分の体のことなのに、原因がわからないし、定期的なストレッチも面倒くさくてやらない人が少なくな い。え?!みんな、体の弱いところとか違うの?ストレッチしてないの?ひどいよ、早く言ってよ。子どもの時に自信を失う必要なんて、全然なかったんだ。
結局、毎月のように小学校を休んでまでリハビリをしていたのに、鍵盤ハーモニカを弾こうとしても、 手首に勝手に力が入り、手が引き込んでしまい、終盤に指が置けなかったのが悔しかった。小学校の年に1回の行事である音楽の発表会で、冷や汗をかいて頑張っても、達成感はなかった。私にとっては、日々の生活や友だちとの遊び、イベント行事の方が、リハビリよりも数倍大切だった。子どもの時から「あな たの体は大切なものだよ。痛いとか、気持ちがいいとか、感じることを全部大切にしてね」と言ってほしかった。
本来あるべきリハビリは、「自分の体を大切にする」経験を積み重ねることだと思う。自分の体と心と向き合うこと。それは、どういうことか。「これは痛いなぁ」「こうすると気持ちいいな」といったことを感じること、「いや!」とか「楽ちんだなぁ」とか、そういうことを言ってもいいという安心感があること。 先生に「そうかい、そうかい」と受け止めてもらって、「ここはこうなっているよ」と教えてもらって、へぇ! と発見する。子どもなりにわかる表現でいい。とにかく、自分の気持ちが大切にされながら、体と向き合 う経験を積むことで初めて、「自分の体が自分のもの」になっていく。
病院に何度も通ったり、手術をしたり、トイレや着替えなどの介助を受けたりしていると、「自分の体は他人のもの」という錯覚になる。最近まで、自分は障害のある体だから、仕方がないと思っていた。そ う思ってしまうと、日々の生活も、人生そのものも投げ出したくなる。でも、そうじゃない。
どんな体であっても、私そのものなのだ。